日本の漢字 岩波新書...

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新明解 現代漢和辞典

新明解 現代漢和辞典

じじヶ沢』


1.はじめに
 「秋田県仙北郡協和町荒川」には、「じじヶ沢」という全国的にも珍しい漢字が使用されている地名があることを知った。この地域の出身者にも関わらず、私は一度もこの「じじ」という文字を見たことはなかった。「じじ」という字を知らないことに、多少なりとも恥ずかしさを感じた私は、これをいい機会と思い調べてみることにした。


2.「じじ」という字の存在の根拠となるもの
 「じじ」について、多くの国字を扱っている。『国字の字典』には次のように書かれている。『 【じじ】[羽陰温故誌]「‐(じじ)と姥(ばば)との家に宿す」(山中良二郎氏=秋田市) [解説]「男と老」の合字。(参考)「姥」は漢字』~72ページより抜粋(資料1参照)~
 『国字の字典』の出典元である『羽陰温故誌』が掲載されている『第三期 新秋田叢書』にも、確かに次のように書かれている。『則手ナツチナリ、里語ニ曰、昔シ八郎ト云者、 ト姥トノ家ニ宿ス』~113ページ 夫殿権現 より抜粋~。
 ただ、「じじ」という文字の存在は確認できたが、『第三期 新秋田叢書(四)』において、「じじ」の字が使用されていたのは、仙北郡ではなく山本郡の項だった。「第三期 新秋田叢書 (五)」の233ページにおいて、「仙北郡昔ハ山本郡ト唱ヒ誤ル」とあるものの、「じじヶ沢」という地名が協和町荒川にあることを裏付けるものではなかった。
 そこで、協和町役場に勤務する生活環境課 課長の協力のもと、協和町役場税務課の住所索引簿から「じじヶ沢」という地名を探すことにした。『03182 荒川字中山ノ内 ヶ沢(アラカワ アザ ナカヤマノウチジジガサワ)』と、確かに「じじヶ沢」は秋田県仙北郡協和町荒川に存在した。また、『03120 荒川字 ヶ堤(アラカワ アザ ジジガツツミ)』という、「じじ」という字を使った別の地名も存在することがわかった。
 これらの場所はそれぞれ、「じじヶ沢」が今で言う「米ヶ森」、「じじヶ堤」が「荒川鉱山」だと思われるというのが、税務課担当者の所見である。「米ヶ森」、「荒川鉱山」と言われれば、私も知っているし、何度も口にした地名である。「じじヶ沢」から「米ヶ森」へ、この呼び名の変化はいつ頃起こったものなのか、また 今も「じじヶ沢」という地名を使う人はいるのだろうか、その謎を解くために私は現地に向かうことにした。


3.「じじヶ沢」に関する現地調査
 現地では次のような聞き込みをした。

 1.「米ヶ森(荒川鉱山)には、じじヶ沢(じじヶ堤)という名前もあることを知っていますか? もしくは、じじヶ沢(じじヶ堤)という名前を聞いたことがありますか?」
 <1の質問で知っていると言った人には>
 2.「日常でその名称を使用していますか?」

 まずは身近なところからと、家族に聴いてみたが知っているという者はいなかった。営林署で働いていた70歳過ぎの祖父は「聞いたことがあるような気がする」と言うものの、それが何処を示す言葉なのかはわからなく、使用したこともなかったので「知っている」と判断するわけにはいかない。
 次に元「じじヶ堤」である「荒川鉱山」で働いた人ならばと、鉱山労働者及び関係者に聴いてまわることにした。聴いたのは元荒川鉱山労働者の80代女性3名、荒川鉱山跡地と米ヶ森の中間に位置する犬平地区に住む50代男性1名、夫が荒川鉱山で働いていた80代女性1名であるが、いずれも「聞いたことがない」とのことだった。
 元「じじヶ沢」である「米ヶ森」に近い上荒川地区のご年配の方にも聞き込み調査を行おうと思ったが、なにぶん高齢ということで体調面や精神面において、聞き込み対象に相応しいと思える方の見当がこの地区ではつかなかった。ここまでの調査から考えるに、生きた言葉ではないどころか、あったことさえ認知されていないと言える。
 では、「じじヶ沢」だと思われる「米ヶ森」には、「じじヶ沢」と呼ばれていたことの証は何か残っていないのか。それを知るために現地に行ってみることにした。「米ヶ森」は昭和四十四年、長山幹丸氏によって旧石器遺跡であることが発見されて以来、調査や発掘作業が進められて十年前の段階で石器等が一〇〇〇点ほど出土している。遺跡は一万二、三〇〇〇年ほど前のものと言われ、秋田県で最初に人が住んだ場所として、また 表面採取ではなく発掘目的で出土したことで、その筋の方には有名である(資料4参照)。
 現在は道の駅{ドライブイン}建設のため、様々な施設の建設が急がれている。この道の駅は遺跡と陶芸をテーマにしたものになるらしいのだが、工事の進捗状況は芳しくないように思える。さて、その「米ヶ森」であるが、「じじヶ沢」と呼ばれたことの証となるようなものは見当たらなかった。
 以前、「米ヶ森」の頂上には御堂があったのだが、そこで自殺があって以来撤去されたままとなっているので、人工物は建設中の道の駅関係以外は何もない。その御堂も「じじヶ沢」だったことを示す古い文献的資料等はなかったと聞く。「米ヶ森」自体にはなくても近くにあるのではないかと思い、この地域について書かれた書物を調べることにした。
 『石‐伝説と信仰 民族選書4』長山幹丸(秋田文化出版 一九九四年一月一五日 初版第一刷発行)には次のように書かれていた。
『米ヶ森下の斉神
 仙北郡協和町荒川の米ヶ森(三一三メートル)の下の台地から荒川に下り川をわたって角館に向かう道がある。これは「繁街道」といわれ、藩政時代は要路であった。この道が台地から川に下るが台地の端に道祖神が祀られている。普通サエノカミとよばれるもので、高さ八五センチほどの自然石であるが、刻まれている字は斉神である。あまり他には例のないサイノカミである』
 この道祖神に「じじヶ沢」の文字が刻まれていないか調べようと思ったのだが、この説明文では場所が特定できなかったため調査は断念した。ちなみに、この『石‐伝説と信仰 民族選書4』には「米ヶ森」にいた山男の昔話が掲載されているが、そこに「じじヶ沢」という名称は出ていない。

4.「じじヶ堤」に関する現地調査
 現「荒川鉱山」である「じじヶ堤」に関しては、この地域の民族及び鉱山の歴史に詳しい進藤孝一さん(「大盛資料館 大盛館」勤務)を訪ね、お話を聴くことにした。協和町には畠鉱山(畑鉱山)、荒川鉱山、宮田又鉱山、亀山森鉱山と複数の鉱山が存在していたが、今はすべて閉山し、荒川鉱山のみがマインロード荒川という観光施設として残っている。
 協和町に関する資料の中には、同じ荒川地区にあった銀山と銅山の場所を混同しているものがあり、銀山の発見年代が元禄となっているが、それは間違いであると氏は指摘し、その根拠となった秋田藩家老 梅津政景が書いた『梅津政景日記』(国立古文書館蔵)の一文を抜粋した『協和町史 上巻』編纂 協和町史編纂委員会(協和町 平成一三年三月三十一日 発行{236~239ページ})を見せてくれた。
 そこには、「(荒川銀山は)上荒川、長泉寺ノ後」と書かれてあった。『梅津政景日記』の他にも、『秋田叢書 第八巻』に「米森山の前山は古銀山なり」と書いてある(資料5参照)。つまり、現存する荒川鉱山は元禄に発見された銅山であり、長泉寺を中心に米ヶ森まで広がっていたのは銀山であるということになる(慶長一八年に発見)。
 奇しくも「じじ」の名の付いたふたつの土地は鉱山ということで繋がっていたわけである。しかし、この地域のことに詳しい氏でさえも、「じじヶ沢」「じじヶ堤」という名は聞いたことがなく、「じじ」の字も見た覚えはなかった。ここからは、「じじヶ沢」「じじヶ堤」の由来や「じじ」の使用地域範囲について郷土資料を基に推測してみることにする。


5.「じじヶ沢」「じじヶ堤」の由来についての考察
 「じじ」という漢字の成り立ちとしては、『国字の字典』に「男と老」の合字とあるので、単純に女偏に「老」で「姥」という字があるから男偏に「老」で「じじ」と読ませたのではないかと考えられる。ただ、この地を「じじヶ沢」「じじヶ堤」と呼ぶようになった理由となると話は複雑になる。
 『地名用語語源辞典 第七巻』編 楠原佑介・溝手理太郎(東京堂出版 昭和五八年九月三〇日 初版発行 平成五年七月三一日 再版発行~355ページ~)には、「祖父(そぶ) ①たまり水などの上に浮かんで鉄錆のように光るもの。地渋。円渋。③昔の製鉄所」とある。いかにも鉱山地に付きそうな名である。
 一方で、秋田のことについて書かれた『菅江眞澄全集 第七巻』編 内田武志・宮本常一(未来社 一九七八年五月三一日 第一刷発行~78ページ~)では、「祖父長嶺」と書いて「ヂイナガネ」と読ませている。このふたつの「祖父」を考えるに、「じじヶ沢」の「じじ」は製鉄所などを意味する「祖父」の読み方が変化したものではないかと思えなくもない。
 いささか強引な読み方の変化説を主張するには訳がある。それは鉱山の興りに関するところに起因する。鉱山は地層的な関係から最初に金が見つかり、次に銀、最後に銅が見つかるという。精錬技術としても金がもっとも簡単であることから、金は比較的古い時代からも大量に発見されている。
 日本の時代で見れば、銀山が盛んだったのは中世、銅は江戸から明治にかけてというのが進藤氏の見解である。この中世という時代に鉱山の発見に大きな役割を果たしたのが山伏(修験者)だと言われている。山伏が山に登るのは修行のためだけではなく、鉱脈を発見することが大きな目的だった。
 その根拠として言われるのが、山伏が山に登るときは必ず沢を登るということである。山伏は沢を登って進むことで、流れてきている岩や石を見て、鉱脈のあるなしの見当をつけるのだという。現に、鉱山地域には山伏の名が付いた地名が全国的にも多く見られる。協和町もその例外ではない。
 山伏は鉱脈を見つけた後は、そこで見つかった鉱物を利用して薬を作ったり、その土地に伝説や民話を残したりしている。この地に伝わる坂上田村麻呂伝説も彼等が残したものだと考えられる。なぜなら、この時代、この土地の百姓には読み書きをする能力もなければ、坂上田村麻呂を知る術すらなかったのだから。故に、山伏が「祖父」として持ってきた言葉も、地元百姓からすれば「祖父」は爺様だから「ヂイ」と言うようになったのではないかと思えるのだ。

 ただ、最初にこの地の鉱脈に気付いたのは山伏ではなかったと氏は言う。初めにこの地の鉱脈に気付いたのは、天皇家内の争いに敗れて逃れてきた物部氏だと言われている。物部氏はこの地の鉱物の豊富さを知り、この地に留まることを決意した。その根拠となっているのが唐松神社に保存してある薬の帳簿である。物部氏は鉱物から作られる薬に関する知識を持っていたのだ。
 この唐松神社は代々物部氏の子孫によって守られてきているが、神社自体は大正時代に一度立て替えられている。大正時代の神仏分離政策の際に、県が「唐松神社は由緒正しき神社である」と主張し、神社として高い格付けを受け、多額の助成金を貰えるようになった。
 そのお金をめぐって唐松神社がある境地区の住民が、物部氏の当主が家を離れていたことをいいことに「神社は町のもの」だと主張し、唐松神社は町のものになり、唐松岳頂上にある愛宕神社のみが物部氏のものとなってしまった。当主は戻ってきた後に訴えを起こし、両神社とも物部氏のものであることが再び認められたが、この間の様々な成り行き上 愛宕神社を建て替えなければならなくなった。
 そこで問題となったのは御神体を何にするかである。この頃、唐松岳には二本の千年杉が生えており、「じい杉」と「ばあ杉」と呼ばれていた。もしかしたら、その字は「じじ」と「姥」だったのかもしれない。この二本の杉を切って御神体とすることで、神社に関する問題は解決をみて現在に至っている。


6.「じじ」という字の使用地域範囲
 「じじ」という字が秋田県に存在することはわかったが、どのくらいの範囲で使われているのかはわからないままである。少なくとも、羽陰温故誌の山本郡の項に載っていたことから、山本郡と住所索引簿に載っていた協和町で使われていたことは確かである。
 この山本郡の項に書かれてあった『夫殿権現』の物語を読むに、これは八郎潟の話ではないかと思える。この八郎潟、今は干拓されて大潟村となっているが、かつては日本第二の湖であった。この湖に関する伝説、八郎伝説は秋田県全土に展開していることから、八郎伝説が広まると同時に「じじ」という字が秋田県全土に広まったという考え方も出来る。そうなると、「じじ」の発祥の地は八郎潟ということになる。
 八郎潟付近が「じじ」の発祥となると気になるのはやはり「姥」という字の存在である。秋田県には「姥」という字を使った地名が数多く存在するが、秋田県の中でも八郎潟付近に多く見られるのである。こうなると、八郎伝説の「じじ」「姥」から付けられたと考えてしまいがちだが、『秋田地名研究年報 第20号』秋田地名研究会(平成16年9月1日 発行)に掲載された木村清幸氏の論文、『「姥懐」という中世地名について』を読む限り、それは違うといわざるを得ない。
 いずれにせよ、八郎潟と協和町という遠く離れた場所を結びつけるものは、八郎伝説くらいではないかと知識の足りない私には思えるのである。

7.鉱山の害から考える「じじヶ沢」
 今回、調査の一環として荒川鉱山跡地であるマインロード荒川の坑内を歩いてみた。坑内はひんやりと冷たく、天井から雫が滴り落ちていた。削った面を押さえている丸太には白カビが生え、普段見ることのない鉱石が存在する坑内はまさに別世界だった。
 そんな坑内を歩いているうちに私の頭に浮かんできたのは、鉱山労働者がかかる病のこととカドミウム米のことである。カドミウム米とは、鉱山から出るカドミウム(消毒に使用されていた)が、そのまま近くを流れる川に流されたことで、その水を使って作られたために味が落ちた米のことである。当然、そんな米が売れるはずもなく、「カドミウム米」と蔑視された。
 そういったことがあっても、地元住民が鉱山開発にあたっていた三菱合資会社を訴えなかったのは、会社側が住民の生活に関して面倒を見ていたからである。事実、秋田県は鉱山によって潤ってきた面が多分にある。しかし、近年の例を挙げるまでもなく、鉱山には昔から害はつきものだった。
 私はその延長線上に「じじ」という地名があるような気もしている。鉱山の害にやられ、必要以上に顔が老けてしまった。そのため、「じじ」顔ばかり多い地域が誕生したことで「じじヶ沢」「じじヶ堤」と呼ばれたのではないか。そう思えるところもある。


8.まとめ
 「じじ」をめぐり調べる中で、地域文字のあり方というものを考えさせられた。言葉とは意思を伝えるコミュニケーションツールであることが大前提だと私は思う。伝えるということが最優先事項である以上、無闇に言葉を増やすことで意思の疎通を妨げてはならない。そういった意味で言葉の統一化、簡略化などは必要なことだと言える。
 だが、「じじ」のような地域文字は知らないほうが正しいとは言えない。確かに地域文字は上記の理由で広まるべきではないと思うが、その地域に住む人まで、かつてその土地にあった言葉の存在を忘れてしまっては、いや 知る術を失ってしまうのは寂しいことではないかと思えてならないのである。
 言葉というものは歴史の中で変化していく。新しく生まれるものもあれば消えていくものもある。利便性と歴史性の中でせめぎ合い、今も議論されているものもあるだろう。それはそれでいいと思う。ただ大事なのは、消えていった言葉を懐かしむ時間である。
 かつて坂本龍馬は「龍」の字が「竜」だったら、「自分宛ての手紙ではない」と言って受け取らなかったという。こういった名前へのこだわりは昔から多くの人が持ち、今も脈々と私たちの心の中に生きているのではないだろうか。漢字の書き順しかり、独特な人名用漢字しかりである。
 私たちが並々ならぬ興味やこだわりを文字に対して抱くのは、そこに個人のアイデンティティーが存在するからだと思う。「こうなのは私」「こういうのは私」という気持ちが、書き順が違う人への違和感となったり、自分だけの漢字を持つことで自尊心を満たしたりしていることに繋がっていると思われる。
 だからこそ、自分が生まれ育った地域における地域文字を知ることで、その地域への関心や正しい愛着心を養い、きちんとしたアイデンティティーを確立するべきだと私は考えるのである。調べなければわからない、ではなくて簡単に見られるところに使われなくなった地域文字がある、そんな街の風景を私は切望してやまない。
 昨今、愛国心を養うために教育の中に取り入れようという動きがあるが、そういった刷り込み的な地域への愛おしさや誇りではなく、自然と心から湧いてくる愛おしさを抱くためには、地域文字を知るということは最良の方法のひとつではないかと思える。
 若い世代の殺人事件や集団自殺のニュースを見る度に思うことがあった。それは彼等が「特別な何か」を彼等自身に対して求めていることだ。「普通」というものを嫌い、「特別」に憧れるその姿勢は、高校時代の自分を彷彿とさせた。彼等は「特別な何か」になれなくて希望を失い、「特別な何か」のために事件を起こしているような気がした。他人をわかろうとしないのに、誰も自分をわかってくれないと嘆く。その肥大した未熟な自我を持て余しているように思えた。
 その「特別な何か」はいつの時代も子どもが持つものだと私は思う。ただ、その「特別な何か」を大人達が「個性」という名に変えて昔以上に押しつけるが、その上手な扱い方を教えていない気がしないでもない。かつて、「特別な何か」は巨大ロボットを動かす力だったり、未知なる自分への変身だったり、超能力だったりした。普通の少年が「特別な何か」に変わるもの、それこそ子どもが求めてやまない永遠の夢かもしれない。
 「特別な何か」は年齢を重ねるごとに現実にある目立つ職業に取って代わるが、それを実現できる者はほんの一握りしかいない。また、自分が求める「特別な何か」を見つけられる者もほんの一握りしかいない。それでも今の社会は子どもに対して必要以上に「特別な何か」を求めている。「個性」という言葉に代えて、である。
 この「個性」重視が叫ばれる世の中ではあるが、皮肉にも同時に「個」の喪失も叫ばれている。「個性がない若者」という言葉が巷で踊る。その「自分」の持てなさ、確立できない「自我」に対しても、今の自分に繋がる祖先からの血、繋がっている地域の歴史を知ることは有効であり、観念的な言い方ではあるが、その結果としてこの時代に漂い生まれた「自分」ではなく、この時代という大地に両足をついて立っている「自分」を認識できるのではないかと思う。
 「私はこんな街で育った」「私の街は、他の街にはない何々がある『特別』な街」という認識が生むローカルな愛着心。田舎自慢にも似た愛おしさこそ、最初にその人の心を象るべきアイデンティティーだと私は思う。もし、その生まれた地に不幸な歴史があったとしても、それをバネにすることで、それもひとつの健全なアイデンティティーへと変わるのではないだろうか。
 だから、消えてしまった言葉を、文字を懐かしむ時間が必要だと私は考えるのである。そう、生き物のように「生きた」「死んだ」という言葉であるからこそ、『言葉の墓』があってもいいのではないだろうかというのが最終的な意見である。何も立派なものでなくていい。その言葉があった場所に、ひっそりと立っている石に刻まれた今は使われない文字、それで十分だ。そのささやかな文字を何らかの機会に目にし、そのことに対して「へぇ~」と思うことが時には必要であり、それが「亡くなった」言葉への何よりの供養であると思うのである。


◆参考文献
『国字の字典』飛田良文 監修・菅原義三 編(東京堂出版 平成二年九月三〇日 初版発行{平成五年七月三〇日五版発行})

『第三期 新秋田叢書(四)』新秋田叢書編集委員会編(歴史図書社 昭和五十二年三月二十日 発行)

『協和町の鉱山』進藤孝一(秋田文化出版 一九九四年三月二十日 初版第一刷発行)

『石‐伝説と信仰 民族選書4』長山幹丸(秋田文化出版 一九九四年一月一五日 初版第一刷発行)

『秋田民族覚書』長山幹丸(北方風土社平成二年五月三十一日 発行)

『菅江眞澄全集 第七巻』編 内田武志・宮本常一(未来社 一九七八年五月三一日 第一刷発行)

『地名用語語源辞典 第七巻』編 楠原佑介・溝手理太郎(東京堂出版 昭和五八年九月三〇日 初版発行 平成五年七月三一日 再版発行)

『協和町史 上巻』編纂 協和町史編纂委員会(協和町 平成一三年三月三十一日 発行)

『秋田地名研究年報 第20号』秋田地名研究会(平成16年9月1日 発行)

※年号は文献で使用されていたもの、そのままです(漢数字は漢数字で)