『水の駅 ~セリフのない劇から見えるもの~』


 なんとふざけた劇だろう、それが『水の駅』という劇を知ったときの率直な感想だ。この劇の存在を知ったのは授業で取り上げられたからで、実際に見に行ったことはないし、見た人の感想を聞いたこともない。観てみたいとは思うものの、現在は上演されていないようなのでそれも叶わない。
 この劇をふざけていると思ったのはセリフがないと聞いたからだ。劇というものには台本があり、どのような物語であるにせよ、セリフと呼ばれるものが存在する。それを廃して、いったいどのような物語を語ると言うのだろうか。これが疑問から一種の不快感へと変わり、ふざけているという感情を抱くに至った経緯である。同時に、この劇に興味を持った瞬間でもある。
 無言劇『水の駅』は、作り手である太田省吾の著書『舞台の水』の言葉を借りれば、次のような構成がとられた舞台である。

『舞台の中央に、把手の壊れた水道。その蛇口から細く流れつづけている水と水音。その水場に、どこからともなくやってきた人々が、水に近づき、水に触れ、ひとときをすごすとやがてどこへともなく去っていく。少女、二人の男、夫婦、老婆、あるいは多勢の人の列などがあらわれては去っていく』

 この構成がわかっただけで、「なんとふざけた劇だ」という不快感は消えた。今まで観てきた他ジャンルの作品の中で、セリフのないものがあったことを思い出したからだ。古くはチャップリン、新しくはミスタービーンといったところが、私の頭の中に出て来て納得させたのだ。
 先に挙げた作品などは、セリフが無いがために映像そのものが共通言語となり、どの国の人が観ても笑えるものとなり得た。『水の駅』も同様に各国で上演され、大きな評価を得ている。セリフがないことは、取り立てて真新しくも奇異でもなかったのだ。ただちょっと、私が忘れていただけの話である。
 むしろ、問題とすべきは作者の意図である。太田氏が如何なる理由を持って、このような舞台を創り上げるに至ったのかを探っていきたい。再び氏の著書から言葉を引用することとする。『舞台の水』は真実についての言及から始まっている。真実を「真」と「実」に分け、その違いを次のように述べている。

『<真>とは、あれかこれかをよく見分けようとすることだが、<実>はただよく見ようとすること。<真>は、他を排除して、一を得ることだが、<実>は、あれもこれも、多の受け容れ』
『<実>は、物語らない方法を探っているのだ。あるいは、<真>の構成による物語方に対して、<実>の構成による物語方を探しているのだ。たとえば、演劇では、筋立て(プロット)、性格(人物)、言葉(セリフ)という三要素を疑うことによって』
『チェーホフからおよそ一〇〇年経った。だから、と言ってよいと思うが、私が表現で獲得したいと希っている<実>は、もっと欲の深いものになっているように思う。登場人物の輪郭はもっと薄くてよいように思うし、プロットの進行も、もっと遅くてよいように思う。そして、言葉もやはり語りすぎているように思えるのだ。勝手と無謀で言ってしまえば、社会存在としての<実>というより、生命存在としての<実>をという希いだ』

 先のような流れで、氏はセリフを廃したわけだ。とはいえ、正直なところ、氏の言いたいことは半分もわからない。いくら言葉を尽くしても、氏の抽象的な想いは抱いたことのある者でなければ理解し得ないだろう。ただ、端的に言ってしまえば、何かを変えようとしていたのだけはわかる。
 では、何を変えようとしていたのだろうか。新たな表現を模索していたと言ってしまえば、安いガイドブックのレビューは事足りてしまうだろうが、多少突き詰めていくと生を欲していたのだと言える。氏は著書で生と書いてナマと読み、それは『ものの概念化の目では見えない相であり、その相を見る目で見なくては見えないところにある』としている。同時に、物語とは概念化を孕むものであり、何らかの要約が必要であるとしている。故に概念化も要約も拒み、時間に触れたいのだという。現在という生の時間、<今ここ>が欲しいのだと。
 以上のことを踏まえて私の見解を書く。物語とは何らかの要約が必要である。ある主人公がいたとして、その者が朝起きてから寝るまでを延々と描く、極論を言えば生まれてから死ぬまでを描くのは物理的に不可能だし、やったところで面白いとは思えないだろう。生まれてからの一瞬一瞬が物語として面白い人間など存在しないからだ。そのために、物語として切り捨てる時間と残す時間がある。
 また、主人公に設定とセリフを与えた瞬間に、登場人物は言葉に拘束されてしまう。主人公の職業が先生とした場合、観客の持っている先生像が作品に影響を与える。何らかのセリフを発した瞬間に、その言葉に対して観客が持っているイメージが想起されるだろう。
 それらのひとつひとつが積み重なることで、多くの観客によりぶれのない同じものを伝えられるかもしれないが、生という時間からは離れていくだろう。筋書きがあり、登場人物のセリフが決まっているというのは、作られた時間に他ならないからだ(セリフを廃したところで、決められた動作をする以上、作られた時間であることに違いはないと私は思うが)。
 逆に、作られない時間で何が語られるのだろうか。このことを突き詰めるとき、前書には便利な言葉がある。「白い路」である。J・コクトーが「ワアグナアやストラヴィンスキイは、それにドビュッシイも、すぐれた蛸である。彼らに近づく者は、その触手から逃れるために苦労する。サティは各人が自由に自分の足跡を残せる、白い路を示してくれる」という言葉を受けてのものである。
 私なりの解釈で言えば、受け手にそれ以外の捉え方を許さないのがワーグナー等だとしたら、サティは受け手に捉え方の自由を与えている。言うなれば、それが白い路であると考える。氏が作られない時間で示したいものが白い路だとしたら、それは言葉を廃したことによる受け止め方の自由ではないのだろうか。受け手によって、「これはこういう物語だった」と語ることを許しているのである。
 思わず、シルヴァスタインの「ぼくを探しに(THE MISSING PIECE)」という本を、古い記憶の片隅から引っ張り出してきてしまう。この本は一時期流行ったゲームに出てくるパックマンのような生き物が、転がりながら自分の開いた口にピッタリはまるかけらを探す物語である。読む人によっては結婚相手を探す話となり、別の人には仕事を探す話となるという。
 氏が生を欲するのは、演劇というジャンルにはビデオや映画では記録できないものがあるからだという。演劇でしか得られない生の体験とは何なのか、自分の体験から語ってみることにする。一昨年、中国語クラスのクラスメイトに劇団員がいて、自分たちの舞台を見に来てほしいというので早稲田のどらま館まで足を運んだことがあった。そこで上演されたものに満足はしていないが、観賞中に妙なものを感じてしまったのを覚えている。
 舞台上の役者の一人、取り立てて美人でも好みでもない女性に「女」を感じてしまったのだ。街ですれ違っても気にもとめないような女性にである。演技をしている彼女にそれを感じているのはわかっていた。同時に、彼女の演技をビデオで録画したところで、この感覚は得られないだろうということも確信していた。何とも奇妙な話ではあるが、生きている者をそこに感じるというのは、案外こういった下世話な話かもしれないと思ってしまった。だとしたら、生を演出する先に行き着くのはセックスではないかとさえ思考を巡らせてしまうのである。

◇参考文献
 舞台の水 著者 太田省吾
      発行 五柳書院