『オペラ「魔笛」』


 魔笛は1791年にウィーンで初演されたモーツァルト作曲の最後の歌劇であり(作曲に取りかかった順では「皇帝ティートの慈悲」が最後になる)、その内容から啓蒙主義の宣伝を目的としていると評されることもあるオペラである。
 啓蒙思想といえば、17世紀末に起り、18世紀後半に至って全盛に達した旧弊打破の革新的な思想である。人間的・自然的理性を尊重し、宗教的権威に反対して人間的・合理的思惟の自律を唱え、正しい立法と教育を通じて人間生活の進歩・改善、幸福の増進を行うことが可能であると信じ、宗教・政治・社会・教育・経済・法律の各般にわたって旧慣を改め、新秩序を建設しようとしたものだ。マックス・ホルクハイマー/テオドール・W・アドルノの著書『啓蒙の弁証法』においては次のようにも書かれている。

 「もっとも広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということであった。しかるに、あます所なく啓蒙された地表は、今、勝ち誇った凶徴に輝いている。啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放することであった。神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したことであった」

 「啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放することであった」とあるが、作品のタイトルになっている魔笛は魔法の笛に他ならない。「呪術」と言葉こそ違うが、同じ類の意味合いを持つ「魔法」の笛である。この頃ウィーンで魔法ものの大衆劇が人気を博していたという話があるとはいえ、世界を呪術から解放することを目的とした啓蒙主義を宣伝するのに、何故に魔力を持つ笛を作中に登場させただけではなく、タイトルにしなければならなかったのか。それも啓蒙主義の敵役的ポジションにいる夜の女王から受け取った笛を、啓蒙主義側にいるタミーノが放棄することもなく後生大事に持ち続けていることを考えると甚だ疑問である。本当にこれは啓蒙主義の宣伝を目的としたオペラなのだろうか、フリーメーソンを破門されたシカネーダーが啓蒙主義を宣伝するのだろうか、何より台本作りに一部関与したとされるモーツァルトは本当に啓蒙主義を宣伝したかったのだろうか、というのが最初に抱いた感想である。
 そう思えるのはモーツァルトという人を思い浮かべる際、真っ先に浮かぶのが『アマデウス』という映画の彼だからなのかもしれない。映画の中の彼は間違っても啓蒙主義の伝道師的ポジションにいるザラストロではなく、どちらかといえば陽気なパパゲーノに近いキャラクターの持ち主だった。実際、モーツァルトは亡くなる日に「おれは鳥刺し(Der Vogelfänger bin ich ja)」を歌っているほど気に入っている。天才的音楽能力を持ちながらも、下品で、幼稚で、汚らしい、それがスクリーンの中の彼だった。
 かなりの誇張や誤解を招く表現はあると思うが、映画のすべてが嘘を描いているというわけではない。現に彼にはスカトロジーの傾向があったという話さえ出ている。シミキンは1992年に発表した『モーツァルトにおけるスカトロジー的障害』において、モーツァルト一家の手紙745通の中で、スカトロジー的手紙は、モーツァルトが371通中39通、10.5%で、他は2.5%以下であり、それはモーツァルト家というよりもモーツァルトに特有のものであること、またこうした手紙の数はモーツァルトの情動の激しい時期と一致していることを指摘している。
 そんな啓蒙から かけ離れたモーツァルトが、啓蒙主義の宣伝をするとしたら、そのように依頼されたから仕方なくやったのではないのかと、オーバーに捉えればそんな気さえしてしまうのだ。無論、フリーメーソンに入会していたモーツァルトが“仕方なく”作るわけがない。フリーメーソンの教義は各所で用いられ、それ故に啓蒙主義的と評される作品である。ただ、“フリーメーソン=啓蒙主義”と図式化してしまうのに、若干の抵抗があったので、改めて考えることにした。フリーメーソンについて、広辞苑には次のように書かれている。

「フリーメーソン【Freemason】
 博愛主義団体。起源は中世の石工組合という。18世紀初頭ロンドンに成立、全ヨーロッパ・アメリカにひろがった。18世紀の啓蒙主義精神から生れ、超民族的・超階級的・超国家的・平和的人道主義を奉じ、各国の名士を多数会員に含むといわれるが全貌はつかみ難い。フランマソン」

 「啓蒙主義精神から生れ」とはっきりと書かれている一方で、「全貌はつかみ難い」とある。まさにそのつかみ難さに、広く知られている姿以外のものを想像し、思考の迷いを覚えるのである。確かに教義は入っているし、モーツァルトはフリーメーソンだった。フリーメーソンのための曲まで書いている。だが、フリーメーソンで教義を作中に入れていれば、啓蒙主義の宣伝をしたかったと言ってもいいのだろうか。フリーメーソンという“たくさんの友人”がいる“サークル”の“内輪ネタ”を使ってみようか、といった遊び心で作る場合は考えられないだろうかと、あの『アマデウス』の映像から離れられない私は思ってしまうのだ。
 それとも、台本に関与したとはいえ、モーツァルトはあまりタッチしていなかったのではないか、などと諦め悪く思ってもみたが、モーツァルトが台本の選定や脚色、構成に、当時としては異例なほど厳格な人であったのは、《イドメネーオ》や《後宮からの誘拐》をめぐる彼の手紙を読めば一目瞭然である。
 モーツァルトの真意はおいておくとして、啓蒙主義を宣伝するのに何故に魔法の笛を、という疑問に対する納得できる仮説はないのか、と言えばそうではない。魔笛のストーリーを語る上で、その支離滅裂さを挙げる人は少なくない。第一幕から第二幕に行くまでに逆転する善玉と悪玉、そこから発生するストーリー的破綻の数々。そこに、第二幕は予定していたものから作り替えられたのではないかという仮説が出来上がる。確かに、これを作曲した時期にフリーメーソンの大物が亡くなっているという事実もある。追悼の気持ちを込めて等、何らかしらの書き換える事情ができたのかもしれない。
 そう考えれば啓蒙主義の宣伝オペラなのに“魔笛”であっても納得がいく。それ以前に、ルーツと言われているヴィーラントが書いたメルヒェン『ドゥシニスタン』の中にある『ルルあるいは魔笛』の原題を残したと考えれば、それまでではあるが。
 兎にも角にも謎に満ちた作品である。悪い言い方をすれば、シナリオ的には出来損ないだと言っていい。大蛇を見て倒れるような男に娘の救出を託す夜の女王。女人禁制の思想の割には、試練の後に得るものが女性である。簡単に鞍替えしてしまう王子タミーノ。娘の奪還を切望していたのに、難なく娘に会ったあと 連れ帰るどころか短刀を渡してザラストロを殺せと言う夜の女王。極めつけは、夜の女王のアリアの前に彼女が言う台詞、「偉大な太陽・・の世界を取りもどすのです」。この後、彼女は倒されて太陽・・の光(ザラストロ)が夜の闇(夜の女王)を追い払ったと言われるのにつけては、いったいどう解釈していいものかと思わざるを得ない。
 挙げればきりがないほどの矛盾と展開の理不尽さを持った作品であり、おそらくオペラという形式をとっていなければ見るに堪えない作品だっただろう。逆に言えば、そんな作品を飽きさせずに見せるモーツァルトの音楽の凄さに驚かされる。
 やはり、このオペラの魅力は音楽以外の何ものでもない。様々な様式の曲が各登場人物に合った形で用意され、誰が主役であってもおかしくないくらい個性を発揮している。そこには、初演を演じた友人達への想いがあったのかもしれない。
 ソ連解体後に発見され、1997年にロシアからハンブルクの図書館に返還された『賢者の石』の筆写総譜の作曲者名にはモーツァルトの名がある。『賢者の石』はエマーヌエル・シカネーダーが台本を執筆、自らプロデュースと主演を行ったメルヒェン・タッチのドイツ語ジングシュピール全二幕で、1790年9月にウィーン郊外のアウフ・デア・ヴィーデン地区にあるフライハウス(免税館)劇場で初演されている、いわば魔笛の姉妹作品である。
 このとき、モーツァルトはシカネーダー劇場のスタッフとの共同作業をし、この『賢者の石』の作曲者の四人がいずれも魔笛の初演に参加しているのである。ヨハン・バプティスト・ヘンネベルクが初演の指揮、フランツ・クサーファー・ゲルルがザラストロ、シカネーダーがパパゲーノ、ベネディクト・シャックがタミーノを演じている。友人達にいい歌を(作曲できる連中に下手なものはやれない)、その想いが端役なしとも言える魔笛の音楽を生んだような気さえする。
 魔笛の曲はどれもよいものだと思うが、160分のLDを見終えた後、私の耳に残っていたのは夜の女王のアリア「地獄の復讐が私の心の中で(Der Hölle Rache Kocht im meinem Herzen)」である。あの曲があまりにも鮮烈なイメージを残したために、他の曲が霞んでしまって印象に残っていない。聴いた直後、あの曲以外で思い出そうと思って思い出せるのは、パパゲーノのアリア「おれは鳥刺し(Der Vogelfänger bin ich ja)」と「パ、パ、パ(Pa,Pa,Pa)」くらいのものである。
 啓蒙主義のポジション的にザラストロが善玉だとしたら、夜の女王は悪玉のボスと言ったところである。その悪玉であるはずの彼女に、あんなにも素晴らしいアリアが与えられている。そう思うとまた、本当に啓蒙主義を主張したいのなら、敵役にここまでいいものを与えはしないのではないだろうか、などと思えてしまう。正直、彼女のアリアを聴いたとき、それまでの曲がコミックソングにすら思え、同じ演目かと思うほどだった(コミック・オペラではあるが)。
 この夜の女王が娘パミーナを想う言葉は普通の母親の気持ちに他ならない。実にありきたりの母親の言葉にしか私には感じられなかった。そんな何でもない、何処にでもいる母親の言葉に、彼はあのようなメロディーを与えている。それは「何でもない、何処にでもいる」存在への愛情ではないのか。好きでもない登場人物のために、いい音楽を用意するのは難しい。ならば、彼の気持ちはそこにあったのではないか。一般市民向けの芝居小屋の親爺だったシカネーダーとモーツァルトの心は、心から何でもない市民に向けられていたのだと思えてならない。
 そう思えばこそ、1780年代後半の経済恐慌を巻き起こす原因となった啓蒙主義的改革を行ったヨーゼフ2世を、モーツァルト自身は同じフリーメーソンとして好んでいたとはいえ、市民はよく思っていないだろうと思い、一般庶民の代表とでも言うべき快楽主義者のパパゲーノが試練をクリア出来なくても救済し、“完全なる”啓蒙主義主張作品にしなかったと言えるのだ。
 夜の女王は文字通り闇を司る存在であり、ラストで彼女を退けたザラストロは光を象徴している。そこには啓蒙主義的発想が垣間見えるが、これは表向きの顔に他ならない気さえする。音楽は“嘘”をつけるとはいえ、登場人物の設定が建前だとしたら、登場人物に与えられた音楽は本音であり、好きな者にはいい曲が与えられている、私はそんな風に思いたい。
 無論、こういった見解は私の勝手な想像であり、いろいろと根拠は出したものの説得力に乏しい。だが、敢えて一言 言わせてもらうならば、こういった深読みや詮索を楽しめるのも魔笛の魅力の一つである。また、それ故に演出する者の手によって印象が変わる作品であり、長い間 飽きられずに上演され続けている要因の一つになっているのではないだろうか。


◆参考文献◆
『啓蒙の弁証法』著 マックス・ホルクハイマー/テオドール・W・アドルノ
訳 徳永恂(岩波書店)
『スタンダード・オペラ鑑賞ブック[3] ドイツ・オペラ㊤』音楽之友社 編 音楽之友社
『モーツァルト=二つの顔』磯山 雅 講談社
『モーツァルト その天才、手紙、妻、死』豊田 泰 文芸社
『広辞苑 第四版』
◆参考映像◆
モーツァルト・歌劇「魔笛」
モル、アライサ、グルベローヴァ、ポップ、サヴァリッシュ指揮
バイエルン国立歌劇場管弦楽団(PHILIPS) 収録1983年 解説:磯山 雅
『オペラ「魔笛」虎の巻!』 http://www.videobrowser.jp/contents/opera.html
(東京オペラ・プロデュース)
2005/10/25放送 「響け! みんなの歌声 オペラ"魔笛"に挑む」 MXTV
2005/10/10放送 「世界のオペラハウス オペラの誕生 チューリヒ歌劇場」
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