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『センセイの鞄』


 川上弘美の『センセイの鞄』はSM小説である、といった話を講義で聴いたような気がする。SであるセンセイがMであるツキコに対して、ある種の一方的な話を展開させ、ツキコが聞き続けるという構成に、先生と教え子という関係にあるような支配と服従を見て、これはSM小説という見方ができるという話だったと記憶している。
 この小説では266ページの『一度だけ、センセイが携帯電話をかけてくれたときの話をしようか』という一文で、それまで時系列通りに物語を進行させてきたツキコの語りが一変している。ツキコが読者に対して「過去にあった出来事を話そう」と、直接的な言い方をしているのだ。「~話をしようか」とは、ずいぶんとぞんざいな物言いである。無理もない、講義内容をそのまま拝借すれば、ここで彼女はMからSになっているのだ。そして、一方的に彼女の語りを聞かされてきた読者は、その受け身故にMであることを突きつけられる。
 ツキコにとってセンセイはSだった。SはサドのSであり、センセイのSだった。それが、センセイが亡くなったことで、彼の本名である松本春綱という名前を聞かされる。センセイはもうSではなく、松本のMになってしまった。マゾのMになってしまったので、代わりに読者がMとなるわけだが、これはツキコ視点で見た本作品におけるSとMである。では、センセイにとってのSとMとは何だったのだろうか。センセイにとって、ツキコはMだったのだろうか。講義内容を生徒らしく素直に受け止め、SM小説として本書を読む中で考えてみたい。
 まず、SMとは何なのかから言及してみたい。現代日本の性風俗におけるSMとは、主に男性と女性が合意のもと、性的な快楽を求めて行う性行為のひとつである。一方が主人で他方が奴隷の役割を演じ、主人が奴隷を肉体的・精神的に責め、双方がそのことで性的快楽を得るものである。
 SMのSとは加虐性欲を意味するサディズムであり、Mとは被虐性淫乱症を意味するマゾヒズムである。サディズムはフランスの貴族マルキ・ド・サド、マゾヒズムはオーストリアの小説家レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ男爵に由来すると言われている。
 SM行為には鞭、蝋燭、ロープ、三角木馬、足枷等の道具を用いた肉体的な責めによるものと、羞恥プレイ、放置プレイ、奉仕プレイといった精神的な責めによるものがある。そういった様々なプレイにおいて、俗に言うスカトロと呼ばれる排泄物を用いた性的行為が行われる場合もある。
 こういった特徴は敢えて語るまでもなく、多くの人が何らかの形で耳にしているものだろう。ただ、SMというと、鞭で叩いたり、蝋燭を垂らされたり、ロープを使って身体を縛られたりということで、「痛い、熱い、恐い」といったイメージを持つ人が大半かもしれない。だが実際のところ、SMは精神的繋がりをベースとした上で成り立っているものである。この精神的信頼感がないと、単なるいじめや暴力となってしまう。あくまでも、そこに性的興奮を得ることが目的の行為であり、いたずらに相手を傷つけているのではない。
 とはいえ、蝋燭を垂らされたら熱くて性的興奮も何もないだろうと思うかもしれない。確かに、一般に出回っている蝋燭を用いれば熱くて興奮しないだろう。しかし、SMで使う蝋燭は低温蝋燭という低温で融解するものであり、火傷をしないための垂らし方というものがある。基本として、蝋が溶けたらすぐにポタポタと垂らすのではなく、一度溶けだした蝋を捨てた後に、蝋燭の炎から離れた場所にある蝋を垂らす。垂らす場所も乳房やお尻などの脂肪が多いところに限定する。
 私も実際に蝋を垂らしてもらったことがあるが、お灸をすえるような感覚だった。身体に垂らされた蝋はすぐに固まり、手で払うとパラパラと剥がれ落ちたのを覚えている。この体験は趣味として行ったものではなく、仕事の都合上で素人同然のデリヘル嬢相手にしたものだが、垂らされた女性の陰部が濡れているのをその後に確認している。たぶん、こんなことで濡れてしまう自分に倒錯的快感を覚えるのがMであり、そんなMを見て何らかの支配欲を高めるのがSではないかというのが、体験を通して私が得たSMの所見である。無論、この小説をSM小説として見る場合、それは性的快楽云々のSMではなく、その手の趣向を持たない人が使用するSとM、つまり他者を責めることに喜びを感じる人と責められて嬉しい人に他ならない。
 さて、前置きが長くなってしまったが、以上のようなことを踏まえてSM小説として読んでいきたい。読み始めて最初に引っかかるのが、71ページのキノコ狩りにおけるセンセイのセリフである。
 「しかし、マツタケそっくりのカキシメジというものやら、シイタケそっくりのツキヨタケというものがあるらしい。これが面倒ですな」
 マツタケ(M)そっくりのカキシメジ(K)に、シイタケ(S)そっくりのツキヨタケ(T)である。単語をアルファベットにした場合、先頭に来るものに過剰反応しているきらいがあるが、SやMにそっくりのKとTである。このSとMをサドとマゾとして見た場合、それにそっくりのK(高校生、子ども)とT(ティーチャー)と考えると、強引ではあるが少し面白くなる。
 先生と教え子の関係は一方的に話す側と聞く側という図式から、一見するとSとMに見られる責め手と受け手という立場に捉えられるかもしれない。ところが、先に解説したSMの定義めいたものからわかる通り、SとMの間における信頼感のようなものは、先生と教え子の間には前提として存在しない。「あの人は私が受け入れられる範囲の責め苦しか用いない」という信頼感は、先生と教え子の間には約束ごととして成立しない場合が大多数だという意味だ。
 「マゾそっくりの高校生というものやら、サドそっくりのティーチャーというものがあるらしい。これが面倒ですな」とセンセイは言い、ツキコに本物のSとMの関係を求めているとすれば、個人的には楽しいお話になる。もっとも、Kは高校生ではなく教師ともとれるし、Tだけ英語のティーチャーというのは無理があるだろう。たとえ、タイトルが『センセイの鞄』であってもだ。KとTを追うならば、後で出てくる小島孝はK(小島)でT(孝)な人になる。
 より直接的なSとMを見るのであれば、106ページの『お酒もおでんも、ほんとにおいしいですねえ。わたしが言うと、センセイはわたしの頭を軽く撫でた』が、主従関係における主人(Master)が奴隷(Slave)に褒美をやるシーンに思えなくもない。
 しかし、なんと言っても魅惑的なのは167ページの次の描写である。
『「頼んでしまったものはしょうがないが、全部は飲まないようにしなさい」センセイは珍しく強めの口調で言った。言いながら、わたしの肩をぽんぽんと叩いた。
 はい、とわたしは小さく答えた。急に酒がききはじめていた。センセイ、もっと叩いてください』
 これは前出の小島なる同級生とツキコがどうにかなりそうだった後のシーンである。「浮気をしました。ぶってください、ご主人様」と、SM的に言ったらこうなるだろうか。物語も後半にさしかかり、ツキコも一人前のMになり始めた。センセイを求める気持ちは恋ではなく、主人を求める奴隷のものだったのだ。現にツキコも244ページでこう語っている、『もう、どうでもいいや。恋情とかなんとか。どっちでもいいや』と。これは大叔母の恋の扱い方の話を受けてのものだが、ここだけ抜き出すとどうにも可笑しい。
 悪ふざけが過ぎるようにも思われるが、これをSM小説として読もうという時点で悪ふざけである。とはいえ、下種の勘繰りに近いものを繰り返していても仕方がないので、最初に問題提起したセンセイにとってのSとMについて考えてみる。センセイという人はツキコをツキコと呼び続けている。小島がツキコを月子と漢字で呼ぶのに比べると、何らかの特別な意図を感じてしまう。ツキコが先生をセンセイと呼ぶような特別さだ。
 ツキコやセンセイのようにカタカナで呼ばれるのはサトルやトオルなど他にもいるが、彼らの場合は普段のやりとりから名前の漢字を知る機会がないためだと推測できる。名前の漢字を知っているであろう元同級生の小島は漢字だし、他の先生達もみな一様に漢字で表記されている。漢字を知っているはずなのに、カタカナで表記されるのはツキコとセンセイ、それからセンセイの妻であるスミヨくらいではないだろうか。ツキコが漢字を知らないためとも思えるが、彼女が夫人の墓の前に立ったことを考えれば、墓石から名前の漢字を知っていても不思議はない。もちろん、スミヨという名前が元からカタカナだった場合を除いてである。
 このスミヨの表記が敢えて漢字になっていないのだとしたら、SだったセンセイがMの松本になったように、Sのスミヨである可能性が高い。センセイの妻(T)はSだったのだ。スミヨとして語られる妻という存在は、センセイを振り回すSな存在だった。センセイにとってSとTは一緒だったのだ。湯豆腐に鱈と春菊(TとS)を一緒に入れるように。だから、ツキコ(T)に期待していたのは、Sになることだったのではないだろうか。
 だが、彼女は大町(大Machi)さんだった。センセイにとってツキコは妻(T)になるべきSの素質を持った人だった。なのに、不幸なことに彼女がその素質に気づいたのは自分が死んだ後だった。死んだ後にようやく彼女は湯豆腐に鱈と春菊(TとS)を一緒に入れるようになる。センセイの妻(T)がSであらねばならぬことを、妻とSがセンセイにとって同義であること知ったのだ。何とも悲劇的な話ではないか。
 センセイは死んで松本というMな人になってしまった。だからツキコがSになった。そして、M役はずっと一方的に文章を読まされてきた読者が引き受ける。そう、まるでM役として授業中は一方的に話を聞かされるだけだった生徒が、課題をチェックしなくてはいけない教師に対して、S心を剥き出しにしてつまらないレポートを提出するように。いや、違う。そこにはSMにおける信頼関係はない。これはただの逆襲だ。
 この物語をSM小説として見た場合、その終わりはツキコがSになったところではない。実はまだ、終わっていないのだ。
 この小説の読者がウェブ上に「いまどき、この年齢の純愛小説はありえない」と冬のソナタのときのような感想を述べ、「感動しました。泣きました」と小学生並みの感想文を書き、「ぜひ、続きを」という声を出した後にやってきた『パレード』という続編。それは『センセイの鞄』で得た感動を求めた人にとっては、肩透かしのものだったと聞く。本当にそうだろうか?
 これをSM小説として捉えた場合、私は最高のプレイに思えてならない。求めていたものをおあずけにされ、欲していた快楽を得られなかった読者をご主人様は眺めている。これは放置プレイに他ならない。求めていたものが得られると思っていたのに得られなくて情けない姿を晒した、この羞恥こそが更なる快楽へと繋がる道であり、読者と作者の関係を深める手段なのだ。このことに読者が気づいたとき、『センセイの鞄』で得た感動というご褒美が、作者から与えられるのかもしれない。そのための調教が『センセイの鞄』によって始まってしまったのだ。ツキコがSになり、読者がMになってしまった。それは、川上弘美と熱狂的ファンの間で行われていくであろう、加虐と被虐が織り成す快楽の世界のはじまりなのだ。
 最後に、某サイトのSMに関する説明文を引用して終わりにしたい。
『Mというのは、自分の快楽に対して、非常にわがままであり、貪欲である。イジメられ(調教を受け)ながらも、女王様(ご主人様)を自分好みのSに仕立てようと「教育」している場合もあるほどだ。Sからすると、「調教」しているつもりが逆に「教育」されているということがある』
~ http://fetish.costume.tv/sm.htmlより ~




参考HP
フェティッシュTV(http://fetish.costume.tv/)